interview

これまであまり語られることのなかった小林真樹子のインサイドストーリー。
第一回目は、高校時代から、琉球放送への採用までを綴ります。

高校時代、補欠でも続けられたのは、友人たちのサポートが楽しかったから。

母校首里高校時代は、ソフトテニス部に所属していました。ソフトテニスは中学の時からやっていましたが、万年補欠でした。(笑)

補欠でも続けられたのは、試合に出られなくても、当時友人たちをサポートするのが楽しかったんです。本当は、ラグビー部のマネージャーとかやりたかったんですけど、父に「男の世話は大人になってからでもできる」なんて言われて。(笑)

父は設計士で、母は活け花の講師をしています。両親が手に職を持っていたこともあって、技術系の仕事に憧れていました。

漠然と、父親の影響なのか、建築とか設計とか、そういう方面に進みたいと思っていました。琉球大学の建築学科を目指したのですが、物理で挫折したんです。

そして、東京の桜美林大学経営政策学部に推薦で合格しました。父は,私が東京の大学に行くことに反対しましたが、なんとか説得しました。

上京。過剰な期待はなく自分の殻を破り、新たな挑戦を始める。

私は沖縄を出ることに抵抗はありませんでした。だからといって、東京に過剰に期待をすることもなかったです。

桜美林大学は、町田市にありました。新宿から小田急線で35分です。人ごみが得意ではないので、当初、新宿よりも横浜に出かけることの方が多かったですね。

東京の生活にはすぐに慣れました。ホームシックになることもありませんでした。ただ一度だけ、上京当初に母親が4〜5日滞在して,沖縄に帰った後はとても淋しかったです。あれが最初で最後のホームシックですね。

大学に入ってからは、環境が大きく変わったせいか、新しいことにチャレンジしたくなりました。自分の殻を破って、やれなかったことに挑戦するチャンスだと思いました。そして、ダンス部に所属しました。万年補欠なのによくやったなと思います(笑)。2年目過ぎた頃、少しずつ、時間をかけるのはここじゃないなぁという気持ちになっていったんです。

想いを伝えるためにアナウンススクールに通い始めた。

アナウンススクール卒業後の仕事は、インテリア系の企業を志望していました。でも、就職活動をしていく中で、面接の時に、自分の想いをきちんと伝えられるのか、とても不安だったんです。それで、母のアドバイスもあって、話し方のトレーニングをするために、アナウンススクールに通いはじめました。

スタートし始めた頃に『セミナー』と呼ばれるワークショップ形式の試験のようなものがありました。大学3年生の夏です。早いですよね。私はフジテレビのセミナーに行くことが出来ました。全部で60人くらいいたと思います。そこでは、実際のスタジオで、フリートークや天気予報のナレーションをやるんですが、なかなかうまくできません。できないことがすごく悔しかったんですよね。その場で、いいと次のセミナーにまた呼ばれていたはずです。

東京アナウンスセミナーという学校には、週一回のレッスン以外にも、なんだかんだと、ほぼ毎日通っていました。みんなすごく熱心で、クラスメイトはみんないい子でした。行ってて、楽しかったですね。

恩師の永井先生に会えていなければ私はアナウンサーという仕事には就けなかったです。それほど素晴らしい出会いでした。また、途中苦しくなった時も仲間がいたから前向きに頑張れました。

気持ちはアナウンスの仕事へ。約30社にエントリー。

最初は、まだインテリア系の会への興味も持っていましたが、アナウンサーの試験に挑戦したいという気持ちが強くなっていきました。結局、就職活動が本格的になっていくと、アナウンサーの試験に集中して、インテリア系の企業の面接を受けることはありませんでした。

アナウンサー試験は、約30社にエントリーシートと呼ばれる履歴書を送りました。東京のキー局、大阪の局、名古屋,福岡,北海道、さらに地方の放送局…。琉球放送は29社目でした。どこかで相性の合う会社が出てくると思っていました。ダメになるたびに落ち込むんですけど、同じ目標を持つ仲間がいますし、そのうちプラス指向になっていくんですよね。自分よりも優秀な人でも合格できない現実みたいなものも見てきましたから。

大阪の放送局を受ける頃から、何となく引っかかり始めました。名古屋では10人くらいに絞られるところまで残れるようになりました。最終面接まで残った会社も3つくらいありました。

アナウンサーじゃなければ採用できると言われた局もあったんですけど、県外で、一般職で入る気はありませんでした。きっと、会社として採りたいタイプのアナウンサーってあるんですよね。私は、今の自分に内定を出してくれる会社があると、なぜか強く信じていました。

「沖縄から何かを発信できたらいい」そんな想いが故郷の会社へと向かわせた。

実は、最初の頃、沖縄の放送局は何となく照れくさくて考えていませんでした。でも受けていくうちに、沖縄のエリアから何かを発信できたらいいなぁと思うようになりました。その年、沖縄テレビの募集はありませんでした。琉球放送だけ募集が出ていたので、エントリーシートを送ったんです。書類審査、面接、小論文,アナウンス、役員面接とありました。後から、聞いたんですけど、合否を出す時に、『採れ』という人と,『採るな』という人がいたようです。結局,発声・発音は心、鍛えればなんとかなるということになったみたいです。採用見送りじゃなくてよかった。(笑)

内定の連絡をいただいたときは,嬉しいというよりも、よかったという気持ちが強かったですね。

母と抱き合って喜びました。